境界が曖昧で混同されているモノづくりと芸術。ギターなんかを作っていると「芸術的」と称されることもあるんですが、私としてはあまり嬉しく感じない。

日本の寺社建築や地方の工芸品など木や漆を使って作られたものが大好きなんですが、前者は信仰的な態度や精神を具体化した建造物、後者は主に藩の財政を支えるための製作物で、いずれも非常に高度な熟練の技によって作られます。

それらが作られた時代、日本には芸術という言葉がありませんでした。

西方から伝わった技術や概念は日本より東に行くことなく、日本列島の中で昇華され発達してきました。日本文化に吸収されたそれらの技術や概念は日本独自の形に変わっていきます。

明治の頃から、多くの外国人が日本にやってきて、そんな文化を見て驚くことになります。建築物や工芸品を見て芸術だと賞されることもあります。

私自身、芸術という言葉を見聞きするとちょっとだけ嫌な気分になります。なぜなら芸術の発展は搾取の結果だと思うからで、どうしてもこれが頭から離れず引っかかるのです。西洋かぶれしてるんじゃないかと思ったりもします。

奈良の神社仏閣が建てられた聖徳太子の時代、部民(べのたみ)と呼ばれた工人たちは大事にされ尊敬もされていたようです。また、仁徳天皇が民のかまどから煙が登らない(貧しくて飯が炊けない)のを悲しみ三年間税を免除しました。三年後に民のかまどから煙が登っているのを見て「民の竈は賑わいにけり」という歌を残し喜びを表現しています。その後も三年間税を免除し、その間、宮殿の修理などは行わず耐えたそうです。

そんな統治でしたから、工人も民衆は奴隷のように扱われることなくモノづくりや米作りを行ってきました。その成果として日本のモノづくりの発展があったと考えて良いと思います。

一方、西洋の芸術は他民族の住む地域を植民地化し、苛烈な労働を強いて搾取を行い、貴族の暇つぶしや贅沢心を満たすために有能な人々を使って芸術を発展させてきた。素晴らしい芸術の裏には無数の人の血と汗と涙がある。

もちろん優れた芸術家が作り出すものは素晴らしいし、優れた技法には圧倒されるものがありますから、それ自体は賞賛や尊敬の対象なのですが、信仰心の現れ(人々の安寧を願う気持ち)や人々を豊かにし生活を快適にし地域を安定させようという目的のものと、貴族の贅沢心を満たすために多くの犠牲を強いて作られたものを一緒にするのは、やっぱり私個人としては違和感があります。

現代では科学技術の進歩、社会資本の充実によって貴族の暇つぶしが庶民の楽しみになっています。クラシック音楽を聴いたり、美術館へ行って絵や彫刻を鑑賞したり、余程忙しく貧しくなければ誰でも楽しめるようになりました。でも、これだって技術を進歩させ社会資本を充実させるためのモノづくりがあってのことですから、やはりモノづくりと芸術は違うものだなと思うわけです。

三島由紀夫などもしばしば芸術について言及していますが、三島はどちらかというと芸術への評価が高い人。非生産労働者(生産労働の上澄みを食らって生きる者)らしい感覚だと思います。 よく考えたら、政治家も役人も経済評論家も芸術家も非生産労働者なんですよね。生産者の上澄みで生きてる人たちが決めることはピンハネの取り分を決めることになってしまうんじゃないでしょうか。

優れたもの美しいものは取り入れて行きたいと思いますが、私にとっては芸術的だという言葉は褒め言葉ではないので、そのような評価は遠慮したいと思いますし、芸術から少し距離を置きたいと思います。そしてピンハネする人生を送りたくないと思います。